熊野古道、川の参詣道をカヤックで下る
「今年の夏休みどうする?」 我が家では毎年春ごろからそんな会話が始まる。行先、期間、目的などを夫婦で話し合う。バブル世代で、少なくとも年1回は海外旅行に行きたい私は、もちろん海外を推すが、仕事で海外へ行くことも多い夫はそれほど主張がない。ただ今年は夫も長年勤めた会社を退職することになり、以前から時間ができたら行きたいと思っていた旧知の友達がいる白浜と熊野古道を強く推してきた。
外国人観光 向けのガイドの仕事をしている私は、世界遺産に登録されて以来、外国人訪問者が激増しているという熊野古道には興味があったが、昔行ったこともある白浜にそれほど思い入れがあるわけでもなく、「まあ、いいけどー」という感じで今年の夏は南紀への旅と決まった。
神戸出身の私は子供の頃や学生の頃、南紀へは行ったことがある。しかし、東京からいざ行こうとするとかなり遠いという事が改めて分かった。熊野古道を歩くことを考えると自動車は選択肢に入らず、JR、バスという公共交通機関での旅。計画を進めると、熊野三山と言われる熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を3日間で周るのはかなり強行軍と分かった。
まずは中辺路20キロを歩く
熊野古道の中で一番メジャーであり中世より皇族が熊野詣をする際に利用された中辺路と呼ばれるルートでは、熊野本宮から熊野速玉大社へは熊野川を利用して川を下って詣でたことから川の参詣道とも呼ばれており、今でも川舟下りが楽しめるということを知った。
せっかく自分の足で歩くのに、本宮から先も他力ではなく自分の手で漕いで行けないかと、インターネットで「カヤック 熊野古道」などと検索すると見つかったのが、「くまのエクスペリエンス」という会社。これだ、と思い申込み。数日後ツアーの確認書が送られてきた。
白浜の友人と旧交を温めた翌日は熊野古道の中辺路を歩く。8月中旬の30度を超える猛暑。ノートパソコン含む4日分の荷物を背負い、20キロの道中。マイナスイオンを浴びながら杉林をトレッキングというような生易しいものではなく、思った以上に急な上り下りが続く。
昔から難行苦行の後、神社へ詣でる修行なのだから当たり前だが。汗でべとべとになり、その匂いに寄ってくるアブを手で払い、もう少しでなくなりそうなペットボトルの水の量を気にしながら、ヘトヘトになって5時過ぎにようやく熊野本宮に到着。開湯1800年とも言われる、素朴で古い温泉情緒ある湯の峰温泉で、汗とドロを落とさせてもらい、エアコン効いた温泉旅館で熟睡。
ガイドの案内で、デンマーク人親子と北山川を下る
翌朝も晴天。カヤックツアーのガイドさんがライトバンにカヤックを積んでピックアップに来てくれる。前日の夜、旅館の部屋で夕飯をいただきながら、中居さんから「明日はどうされるのですか?」と聞かれ、「カヤックで川を下ります」と言うと、「そんなのあるんですか?」と驚かれた。
地元の人でも知らなかったことに逆に驚き、ガイドの上野さんに言うと、「よくカヤック積んでこの辺も走っているんですけれどね」と。人は興味のないものは、目に入ってこないのだろうか。今日のゲストは我々夫婦以外にデンマーク人の父とティーンエージャーの息子と娘で合計5人。上野さんによれば、このツアーは日本人より外国人のゲストの方が多いそうだ。
川の参詣道である熊野川は、上流にダムがあり、今の時期は水量が少ないので、今日は北山川を下ることになった。バンを走らせて奈良県に入り瀞峡(どろきょう)に到着。重いプラスチックの二人乗りカヤックを、全員で力を合わせて駐車場から河原へおろす。「これが本日一番の難所です」と上野さん。
瀞ホテルという食堂の前の急で長い石段を、足を踏み外さないよう、重いカヤックを運ぶので汗が一気に噴き出した。ちなみにこの瀞ホテルは100年以上前に建てられた由緒ある建築で、山で木材を切り出した後、筏を組んで運ぶ「筏師」が宿泊する場所だったそう。
上野さんによれば、この川でカヤックやラフティングなどのアウトドア活動を行っている業者数社で行政に掛け合い、かつて木材運搬用に敷設されていたワイヤーを改めて架設するようお願いしているそう。そうなればカヤックを河原に下す作業も格段に便利になる。この地の歴史にもマッチするし、是非実現して欲しい。
カヤック出発前に瀞峡渓谷にかかる山彦橋の見学。15人以上は渡らないでくださいという吊り橋を恐る恐る渡る。足がすくむけれど、渡り切ったところに立つ「熊に注意」という看板にさらにビビる。それにしてもザ・渓谷という感じで切り立った岩と、綺麗な緑の水がインスタ映えする景色。
こんなに楽ちんで楽しい参詣じゃ、ご利益は望めない?
私にとりカヤックは、海で、湖で、そして東京の運河で何度もやったことがあるスポーツだけど、瀬がある川でのカヤックは初めての体験。安定したタンデム艇であり、浮かんでいるだけでも川の流れで進んで行けるし、夫とのパドリングで息が合わなく蛇行して喧嘩することもなさそう。昨日の湿気の高い山の中での歩きに比べるとなんと楽なことだろう。神社へ詣でるために難行苦行が必要な熊野詣出では、こんなに楽しいとご利益は望めないのかも。
河流のグレードは1(易しい)から6(最高難度)まであるそうだが、今日はほとんどの瀬がグレード1で1カ所だけ2があるコース。デンマーク人のお父さんは「こんな素晴らしいツアーなのに、なんでお客さんがいないのか。もっと宣伝すれば良いのに」と。瀞峡ジェット船には何度かすれ違ったが、我々以外でカヤックやっている人には全く出会わず、河原にもほどんど人がいない。国道からも離れていて車の音も聞こえず、聞こえるのは自分たちの会話とパドルが立てる水の音のみ。お盆休みのこの時期に、この閑散ぶりはありがたいやら心配やら。
1時間半ほど漕いで、河原に上陸。ここで上野さんが作って来てくれたサンドイッチとお湯を沸かして入れてくれたお茶やコーヒーをいただく。デンマーク人ファミリーと水切りして遊んだり、その後は川に飛び込んで泳いだり。
ランチ後も川を下る。そのうち上野さんが、「今日一番の流れです」というグレード2の瀬に差し掛かった。ザワザワザワと音ともにカヤックをまっすぐ入れると、さーっと流される。爽快。午前中は切り立った岩の間を漕ぐことが多かったが、午後は広い河原が増えてきた。真夏の晴天の中、とても涼しく快適な3時間半のカヤック旅だった。終了地点でみんなと別れてから、我々2人はバスで新宮へ。熊野速玉神社の前を通りかかったときに、軽く頭を下げたので、これでお参りしたことにしてもらおう。
山と川の両方から体験した熊野古道。今年の夏の旅行も楽しいものとなった。
文・写真 肥塚由紀子
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