クルーズ誘致と港まちづくり 北海道小樽市座談会第2弾(1) クルーズ船がまちの風景を彩る
古くは北前船、近代化とともに石炭を積み出す炭鉄港として栄えてきた北海道小樽市の「小樽港」。近年は舞鶴(京都府)や新潟との定期フェリーが発着し、クルーズ客船の寄港も少なくない。いま小樽港では再整備計画が進められており、5年後の2027年に新たなステージに突入する。そこで、小樽港の過去・現在・未来について一般財団法人みなと総合研究財団クルーズ総合研究所副所長の田中三郎さん、小樽市産業港湾部港湾担当部長の佐藤文俊さん、一般社団法人小樽観光協会事務局長の逸見(へんみ)繁男さん、小樽商科大学グローカル戦略推進センター客員研究員の高野宏康さん、エフエム小樽放送局プロデューサーの田口智子さんをパネリストに座談会を実施。小樽活性化プロジェクト実行委員会の主催で約30人が参加した。
市民が来るから観光客も訪れる
―まずは港やクルーズの関わりを含めて自己紹介をお願いします。
佐藤 昭和60年度に市役所に入り、今31年目です。平成11年に当時の港湾部に異動し、それからずっと港湾関係の仕事に携わってきました。クルーズに関しては平成23年に国の施策として日本海側の拠点港になり、クルーズをテーマにした日本海拠点港の計画書を作成しました。計画書をあげたことを契機に、クルーズ船の受入埠頭となっていた第3号埠頭の再開発を担当させていただくことになり、かれこれ10年ぐらいになりますが、岸壁の方も今北海道開発局に進めていただいており、完成が見えてきました。もう少し時間はかかりますが、公園や観光インフォメーションなどガラリと変わる再開発が進んでいるところです。
田中 客船の船長になりたいと少年の時に思い、それからその道で生きてきました。日本郵船に三等航海士として入社し、海上勤務の後は後輩育成のために商船学校の教官などを務めていました。その後1988年に日本郵船で客船のプロジェクトが始まって以来、客船事業に携わっています。小樽港は、初めて船に乗って初めて来た港です。ただ50年以上前であまり記憶に残っていませんが。ちょうど20年前の92年8月にクルーズで来てから、おおよそ小樽に40回ぐらい来ています。名刺も確認すると180人ぐらいと交換していました。93年だったと思うのですが、潮まつりの時に飛鳥を第3号埠頭につけ、地元港湾振興会のグループと飛鳥のお客様と乗組員が一緒になって約100名で都通りのアーケードで踊り込んでいました。その時まつりのやぐらが目の前にあって、その奥に飛鳥がいる。その光景は今でも鮮明に覚えています。
逸見 観光協会は昨年から勤務しており、それまで20数年は市内のホテルで営業職をしていました。小樽市内のホテル客室数は道内でも10番目で、観光客数も多いのですが泊まらない観光客が多いのが課題です。観光協会としてクルーズに対しておもてなし、営業活動をいかにしていくかで、観光流動人口を増やしていきたいと思っています。
田口 FMおたるでプロデューサーをしています。朝の生放送の番組などを担当し、営業や司会などもしています。15年ほど前からはライターとして活動し、北海道新聞から「小樽さんぽ」として3冊が出ています。もともと札幌生まれなのですが、子どものころから大好きな小樽に住むと決めていました。その理由は海があること。海があるのは本当に憧れでした。そして、大学を卒業して小樽市役所に入り、資産税課や観光部署に勤務した後、港湾部に異動し、クルーズ船誘致の仕事を担当しました。東京へ出張して郵船クルーズに行って、田中さんにお話しさせていただきました。当時の上司だった佐藤部長とも、今ここでお話しできるのもご縁です。
―それでは、小樽港の歴史について自己紹介も兼ねて高野先生にお願いします。
高野 私は石川県、北前船主のふるさとの出身です。今回は、観光の港として小樽をどう活性化していくかがテーマなので、歴史的なストーリーや今後の活動のヒントになるような形で歴史をたどってみます。3年前の2019年に小樽港開基150年・小樽港開港120年というシンポジウムが開かれました。これは、1869年(明治2年)に場所請負制という江戸時代の制度が廃止され、手宮に海官所という役所が設置されたことに起因しています。北前船はこの時から活発化します。もともとは忍路や塩谷など小樽港外に北前船は来ていました。江差も松前もそうです。ただ、小樽港が整備されたことによって北前船がどんどん増えていきました。つまり、小樽港は明治になってから北前船がたくさん来るようになったのです。そして近代的な北前船主が来て新しいビジネスを展開する。それが小樽港の特徴です。近代の小樽港は、北前船など商船が来港する港として整備され、明治24年ごろになると埋め立てが進み手宮が北前船の寄港地なるなど時代とともに変遷しています。
もう一つは炭鉄港、石炭の積出港としての役割です。明治12年に幌内炭鉱が開鉱し、翌13年には札幌―手宮間に幌内鉄道が開業します。幌内まで全通し、石炭が運ばれるようになったのは明治15年です。その後、明治22年には特別輸出港に指定され、国際的な港になっていきます。つまり小樽港は、商船の歴史と炭鉄港の歴史という両輪があったわけです。
さらに重要なのが防波堤の築造です。北防波堤、南防波堤といずれも重要な産業遺産ですが、明治30年に廣井勇さんが設計、着工しました。このことも小樽港の進化を示す重要な出来事です。
さらに、小樽運河ができたことも触れないわけにはいきません。ちょうど来年、小樽運河完成100年になります。そうした近代的な小樽港を造っていく過程で、戦後間もなく第2号埠頭や第3号埠頭が完成し、その後も中央埠頭などが整備されていく時代が80年代まで続きました。
―実際に港を管理運営されている立場から、小樽港の歴史や経緯、役割について佐藤さんに伺います。
佐藤 物流の視点で説明すると、北海道の開拓とともに発展してきました。大きな節目は、戦後の大きな商圏の喪失です。大陸、サハリンが地理的にも地勢的にも力を発揮できる場所でしたが、戦後なくなってしまいました。もう一つは石炭が石油に変わったエネルギー変革です。ただ、時の関係者が尽力し、新たな活路として日本海側の長距離フェリーポート、製粉工場など穀物の取り扱いを小樽港の新たな展開として始めていきました。現在も新日本海フェリーが週13便で本州を結んでおり、これは小樽港というよりも北海道の物流の主要動脈として活用されています。
また、木材は時代の流れとともに取り扱いが減少し、港湾施設や小樽運河も港湾機能として遊休化していきました。このころから、遊休した港湾施設をまちづくりとして活用していけないかという発想が生まれてきました。小樽運河も論争を経て、今の状況になりました。貯木場は小樽港マリーナ、ウォーターフロントとして今の姿になっています。昭和後半から平成にかけてが、小樽港の変化したポイントと受け止めています。
―観光スポットとして港の変遷はどうですか。
逸見 観光スポットになっているかと言うと、運河は観光スポットとして散策だけでなく運河クルーズもありますが、小樽港自体は観光スポットというにはまだまだ足りません。運河は観光客が多いですが、港側に人が流れていません。小樽観光振興公社が観光船「あおばと」と屋形船を運行しているものの、なかなか利用が増えていないのが現状です。
逆に今、第3号埠頭を整備し大型クルーズ船を呼ぶ、みなとオアシスとして新たな観光地へ持っていくことによって、この先の観光スポットとして人を増やしていくことはこれからやっていかなければならないと思っています。現状は、港は観光スポットでないのが実態です。
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