北新地で粋を伝えた芸妓 日本舞踊西川流師範・西川梅十三さん/上方文化
凛とした佇まい。夏らしい淡い色の着物。指の先に至るまで一つひとつが明確に制御されているような所作や仕草。そして艶っぽさを感じさせるお話しぶり。西川梅十三(うめとみ)さんは、うだるような暑い日なのに、涼しくやさしい風を届けてくれる—。お話を聞いた。
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西川梅十三さんは、戦争の記憶が色濃く残る昭和28年、戦後最初の舞妓として北新地に来た。15歳だったという。
「京都で生まれて、小さいころから習うてた踊りのお師匠はんが北新地にいてはったんです。それで出てきました」
当時はまだ30軒を超すお茶屋が北新地に並び、その範囲も老松町から出入橋と現在より広い範囲で花街が形成されていた。置屋には200人以上の芸妓がいたという。梅十三さんが見せてくれた古い写真には、御殿風の木造建築で豪奢な演舞場もあった。商いのまち大阪の社交場だった往時をしのばせる写真だ。
幼少のころから踊りをしてきた梅十三さんは、見習いもせず舞台に立った。堂島の毎日ホールや桜町のサンケイホールで「浪花踊り」を披露していたという。
数多くのお座敷に声がかかり、大阪の旦那衆のみならず梅十三さんの贔屓客は著名人が名を連ねた。「ダンスがお好きでしてね。よくお相手をさせていただきました」というのは常陸宮殿下。「四ツ橋の旅館にお泊まりでしてね…」とは高松宮殿下。名優・長谷川一夫も贔屓客だった。まさに粋な客が集い、上方流の洒落た遊び事が文化を形成していた時代であった。
転機は大阪万博だったという。「新幹線ができて大阪に泊まらんようになり、二次会は京都でという東京のお客さんが増えました。それでお茶屋がなくなり、クラブやスナックがどんどんできていったんです」。
梅十三さんは芸妓の一線を引き、今は日本舞踊西川流師範として後進を育成している。大阪天満繁盛亭では落語家の指導にもあたっている。
プライベートで訪れることが少なくない旅館。「襟の合わせが下手。立った時に足を少しずらして、斜めに構える。そうするとお尻がキュッと上がりますやろ」と、旅館女将の立ち振る舞いを指摘する。それは、和文化を継承する担い手として期待している裏返しの視線だと感じた。
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